Top Page >> 武術空手とは

武術空手って何?

「武術空手って何?」

「普通の空手と何が違うの?」

「武術空手って難しそう。私でもできるのかな?」

そういう疑問、質問をよく耳にします。

確かに、「空手」という言葉は世の中に溢れていますが、「武術空手」という言葉は馴染みの薄いものだと思います。

また、「武術空手」という言葉の響きから、とても重厚で難しいと感じてしまうかもしれません。

そこで、このページでは、「武術空手」についてご説明したいと思います。

なお、「武術空手」と言っても難しいものではなく、普段の稽古で自然に身に付いていくものですので、ご安心くださいね。








「武術空手」と「スポーツ空手」

当協会は「武術空手」を謳っていますが、本来、空手とは武術、すなわち、実戦的格闘における護身及び格闘の技の総称なのであり、当然のことを表しているだけです。

あえて「武術空手」という言葉で表現するのは、「スポーツ空手」との対比においてです。

「スポーツ空手」とは、別名「試合空手」とも言われているとおり、試合での勝負、すなわち、試合で勝つことに主眼を置いたスポーツとしての空手をいいます。

本来の空手が武術である以上、厳密には「スポーツ空手」という概念は存在しないはずであり、「スポーツ空手」は、空手という名前はついていても、本来の空手とは別物の、新しいスポーツの一つと捉えるべきでしょう。

まずは、「武術空手」と「スポーツ空手」は、空手という同一名称にかかわらず、全く別物であることをご理解いただければと思います。








空手界の主流

本来、空手は武術であるにもかかわらず、ほとんどの道場、団体、組織が、試合に勝つことを主眼とし、試合に勝つための稽古をしているので、現在の空手界の主流は「スポーツ空手」になっているといえるでしょう。

その経緯としては、まず歴史的にみると、①第二次世界大戦において武術、武道が日本の国体に寄与したという事情から、戦後GHQの政策によって、武道を、より民主化されたスポーツとして位置づけるべく指示があったこと、②柔道がオリンピックに参加するようになってから、武道全体の試合偏重、試合至上主義、勝利至上主義の風潮が高まったこと、③空手をオリンピック競技として推進する団体が、率先して試合至上主義、勝利至上主義を助長することにより、空手をスポーツ化したことなどが挙げられます。

また、現場的にみると、指導者の資質によるところが大きいといえます。
①ほとんどの指導者は、正しい空手を修得しておらず、本来の武術空手を指導できないこと、②これに対し、試合で勝つために必要な小手先の技術であれば、空手初学者や中級者、場合によっては保護者でも指導ができることに加え、③試合というイベントに年中参加して目先の勝負を鼓舞していれば、道場生や保護者の士気を保つことが容易となることから、自ら稽古をせずとも、自ら空手修得の意義を日々語らなくとも、運営的にも経営的にも組織を維持しやすいという簡便さがあるからだと考えられます。








「スポーツ空手」の弊害と指導者のジレンマ

このような「スポーツ空手」には、数々の弊害があります。

【技術面】

・試合に勝つための稽古が主流となり、小手先の技術の習得に主眼が置かれ、誤った空手を追求し空手の稽古の本質をないがしろにしてしまう。

・「稽古の一環としての試合参加」という名目の下、事実上は試合のための稽古しかしておらず、「試合のための稽古」となっている。

・具体的な稽古においては、本来最重要視すべき基本(移動基本)を軽視し、時には省いてしまう。

・形であれば、平安形の一つ(松涛館流の場合)と指定形しかせず、そのほかの鍛錬形等の稽古を怠り、見栄えを良くするためにオーバーアクションをしたり、無用な音を鳴らしたりして、”派手な形”を”演出”してしまう。

・特に形については、高得点を取るために教本通りの画一性が要求されており、個性が埋没してしまう。

・自由組手では、本来の正しい技は試合での点数が低いゆえ軽視し、いかに”反則”をとらずに”ポイント”を取るかというテーマに固執してしまう。

・自由組手でポイントをとるための技は数種類しかなく、空手の稽古としてはお粗末としか言いようがない。

・「形の選手」、「組手の選手」という言葉に象徴されるように、形又は組手のいずれかに特化することが多くなり、いずれか一方に対し苦手意識が芽生えると同時に、その稽古をおろそかにしてしまう。

・高い技術を有する指導者がいない場合、空手本、DVD、ユーチューブ、優秀選手の試合の録画などの映像媒体による稽古に陥りがちとなり、人間味のない表面的な動きとなるとともに、正しい空手からますます乖離してしまう。

【ルール面】

・試合でのルールは、その年、その試合ごとに次々と改正されるとともに、主催者によっても異なるので、指導者や参加者は、試合に勝つために、表面的なルール上の技術を追いかけることに終始せざるを得なくなる。

・試合のルールは、海外の上位組織や有力組織が、外国人の体型や身体能力が優先するようなルールに改正してしまっている場合が多い。

【判定面】

・試合での審判は、流派間の暗黙の了解や数の理論、参加団体代表者の主催組織内での力関係など人的事情によって左右されてしまい、公平性を全く欠くヒューマンジャッジとなっている。

・そもそも、審判員の技術、力量、能力に相当な疑問、不信がある。

・他流派合同の試合では、審判員不足のため、他流派の技術を理解していない審判員が入り、見た目と感覚で誤った審判をしてしまう。

【安全面】

・試合での勝負に固執するあまり、特に自由組手の試合では怪我が多い。

・そもそも、”自由組手”という試合形式自体が、身体に対する潜在的な危険性を孕んでいる。

・防具をつけた上で頭部に攻撃を受けた場合、防具を介した間接的で深い振動により脳が揺れ、その時は一過性の症状であっても、将来的に後遺症を残す深刻な症状を引き起こすことがある。

・審判員に技術及び力量がないことから、興奮、高揚した選手らの暴走を止められず、怪我を誘発してしまう。

・指導者は、試合で勝つことに盲目的になるがあまり、”強くさせる”という名目の下、体罰を生みやすい。

【精神面】

・指導者にとって、「弟子」ではなく、一部の「勝てる選手」を作ることが主眼になってしまい、師弟関係の構築がおろそかになってしまう。

・試合に負けた場合に、指導者のせいにしたり、審判員のせいにしたり、試合ルールのせいにしたりすることが多々見られ、負けたことについての自省すらしなくなってしまっている。

・実際に審判員や試合ルールが原因で負けることも多々あるが、それをわかった上で参加している者も多く、自己矛盾が生じている。

・多くの試合に参加しているうちに、試合慣れしてしまい、緊張感もなくなってしまう。

・海外主導での空手の試合の運営に日本人が追従して参加することにより、日本で発祥した空手という誇りは全く消滅してしまっている。

・試合というものは一種独特の高揚感を生むので、本人も周りも盲目的になり勝利至上主義に陥ることにより、物事の本質を見間違ってしまう。

【現象面】

・試合で勝つことに固執するあまり、本人よりむしろ保護者が、自分の子どもを勝たせたい一心で、空手の本質を理解しようとせず、指導者に”自分の子を勝たせるための練習”を要求したり、ひいては、試合に勝たせてくれる道場を探し転々とするという状況が起こってしまう。

・試合に勝てない者は、”落ちこぼれ”として扱われ、稽古中に放置されてしまい、空手に対して負の印象を持ったままやめてしまう者も少なくない。

・度重なる試合での勝負に疲弊してしまい、中学生、高校生、大学生、社会人と成長するにつれて、空手をやめてしまう者が増えていく。

・試合でチャンピオン歴のある者が、海外では歯が立たないことを経験すると、二度と空手をしなくなってしまう。

【費用面】

・団体によっては、試合至上主義で、年中多数の試合に参加することにより、参加費や遠征費など参加者の出費がかさむ。

【その他】

・試合用の小手先の技術であれば、初学者や中級者でも指導が可能であり、初学者や中級者の道場独立が早まり、流派、団体が乱立してしまう。

など・・・・・。

現在、このような「スポーツ空手」の弊害を認識し、このような現状を憂いている指導者が多数いることも事実です。
しかし、長年、このような空手のやり方をしてきた指導者たちは、自身の技術不足、指導者を正しく指導する者の不存在や、道場の運営、経営上の問題、人間的、組織的しがらみなどの中で、正しい空手の理念や方向修正の必要性に気づいてはいながらも、身動きがとれない状態となっています。








当協会の在り方 ~原点に立ち帰る~

当協会総本部は、「スポーツ空手」、「試合空手」を完全に排除しています。
「スポーツ空手」、「試合空手」は、正しい空手の修得において、邪魔にこそなれ一切有益な点がない、すなわち、百害あって一利なしです。

確かに、「スポーツ空手」をあくまでもスポーツの一つとして捉えれば、空手の試合をスポーツの試合として参加し”楽しむ”ことも、一つの考え方だと思います。
一般的にスポーツというものには、例えば「競争による成長」、「負けたことの悔しさをバネにする成長」、「団体戦による仲間との絆」など良い面が数えきれないほどありますし、考え方は人それぞれなので、スポーツとしての空手をすることが間違いであると言い切れるものではありません。

しかし、保護者の皆様は、自分の子どもに空手を習わせようと思う時、スポーツをさせようと思って空手を選ぶのでしょうか。 試合で勝って欲しい、チャンピオンになって欲しいと思って、空手を始めさせるのでしょうか。
空手に興味を持ち空手を始める者は、試合のチャンピオンになりたくて空手を始めるのでしょうか。

保護者の方は、心も身体も強くなって欲しい、礼儀礼節をきちんと身につけて欲しい、家庭や学校で学べないことを学んで欲しい、空手道場なら安心して任せられるのではないか、そういう、ある意味漠然とした思いで空手を選ぶのではないでしょうか。
大人の場合も、試合のチャンピオンになりたいなどとはつゆ思わず、 強くなりたいという思い、特に、男性であれば強さに対する憧れ、女性であれば護身の必要性を感じてなど、動機はそれぞれあるにしても、共通点は、 空手の道場でしか学べない心や身体の「強さ」を修得したい、違う自分を探してみたいという思いから空手を始めるのではないでしょうか。心身ともに鍛練したい、強くなりたい、空手の修業を通じて自分を見つめたいなど、日本古来の武道、武術の精神性を含めた空手像を見出して空手道場の門を叩くのではないでしょうか。

当協会の最高師範も、かつては、試合空手に疑問をもちつつも試合を主催したり試合に参加したりして、多数の道場生を優勝に導いた時期もありました。
しかし、そこで感じたものがまさに上述の「スポーツ空手」の弊害であり、その傾向は現在ではますます顕著化していると感じています。
また、海外50ヶ国以上をまわり空手の指導をしていく中で、小手先での試合用の技術がいかに世界の実戦では通用しないか、海外の弟子たちがいかに日本の武術を「強い」ものとして信頼し習得したがっているか、また、日本より治安の悪い多くの諸国において、女性や子どもも含めいかに護身術が必要とされているかということなどを肌で感じてまいりました。

当協会では、現在の空手界に対して疑問を投げかける有志が結集の上、子ども達と我が国の未来のために、『武術空手』、すなわち正しい空手を伝承することを目的として、日々稽古しています。
このような当協会の考え方に賛同し、師範会に加入申請する指導者や、支部や友好団体に登録申請する団体も増えてきています。

今後、近い将来には、当協会が確固たる信念として掲げる『武術空手』の精神が空手界の主流となり、正しい空手が日本全国、世界各地に広く普及してくことを願ってやみません。


元来、空手は、闇夜に墓場などで師から弟子へ秘密裏に伝承されたものです。
空手とは本来、師から弟子へ、日本人の強い魂と技術を伝承していく武術です。

今一度、空手の原点に立ち帰り、本物の師弟関係のもと、本物の正しい空手、すなわち『武術空手』を一緒に修業していきませんか。








「武道」ではなく「武術」としての空手

当協会は、「武道」ではなく「武術」としての空手を追求しています。
それは、空手には、まだ「道」がない、と考えているからです。
柔道、合気道、剣道、古武道など、日本の伝統的武術は、先人達の手で道が確立されており、「道」を称していることと思います。
しかし、空手には、まだ「道」がない。
確かに、多くの先人達が空手の研鑚を積んできましたが、「道」はまだ完成されていません。

先人達が創り上げてきた未完成の道をなぞることで満足してはならない。
先人達の血と汗と涙を受け継ぎ、今こそ「道」を完成させ弟子達に残すべきである。

これが、先人達から当協会に与えられた使命であり、当協会が「武道」、「空手道」を名乗らない理由です。

また、「武術」という言葉には、「技術」を最も尊ぶという意味も含まれています。
「空手は技術ありき」であり、「技術」のない空手は空手ではありません。
空手を含めた「武」の世界では、技術者たることが最も上手(じょうず)であり、技術者たるには才知に長けていなければなりません。
この「技術」を研磨できる精神こそが、日本人が有する最も強く尊い性質です。
才知に基づく強い精神性があってはじめて、高い「技術」の修得が可能となるのです。


『温故知新』の空手

「故きを温めて新しき知る」

当協会の空手を一言でいうと、この言葉で表すことができます。
昔の武術を今一度考え、新たな道理や知を見出し、古いものをたずね求めて、新しき技術を創り上げること。


『生涯武術』の完成

『武術空手』という言葉の中には、『生涯武術』という意味も含まれています。
当協会は、『生涯武術』の完成を目指しています。
『生涯武術』により、人格の完成を目指します。

なるべく多くの方に”長い空手”をやって欲しいと考えています。
生涯をとおして稽古を続けることにより、生涯を通じた自分自身の太い”背景”を創り出すことができます。

稽古中は、子どもでも大人でも、ある瞬間、無心になります。
無心になり、自分の原点を無意識に見つめ直すことができます。
生涯をとおして、自分の原点に帰り自分を見つめ直すことができる空間があること、自分が帰る空間があるということは、とても心強く貴重なことだと思います。

現在、空手を修業しているお子様も、大人になってから空手を始めた方も、これから空手を始めよう思っているお子様も大人の皆様も、ぜひ、『生涯武術』を心の片隅に置いて空手の稽古を重ねていただければと思います。


個性を拠り所とする『武術空手』

『武術空手』の技は無限にあります。
技の種類だけでも無限にあるところ、『武術空手』の有段者ともなれば、その身体的・技術的・人格的個性に基づき、さらに無限大の可能性を追求していくことになります。
その研究は終わりを知りません。
であるが故に、『武術空手』は、『温故知新』を題した『生涯武術』であるといえます。
『武術』は、最終的には「個性」を拠り所とするものです。
空手には、個々の気性と気質が表れます。
指導者は、その個性を見抜き引き出す見識眼を有する必要があります。
ですから、当協会の空手は、大人から子どもまで、個性の発見と研磨を最大のテーマとし、特に有段者については型枠に嵌らない自由な動きと発想を尊重しています。


さいごに

スポーツとしての空手ではなく、『生涯武術』としての空手。
目先の勝負だけの修練ではなく、人格の完成を養い心身ともに自己を鍛え上げる空手。
当協会では、試合での勝敗を主なテーマとする「スポーツ空手」を一切排除し、長期的生涯武術の修業を見据えた正しい空手、すなわち『武術空手』の伝承を目的としています。




空手の武術認識

武術は、日本古来より先人達が闘いに勝つ為の手段として血を流し汗を流し、武道となったが、その日本武道精神は独特だ。
人を殺さず人を活かす道である。
他人の生命に敬意を払い、謙虚にして無心、そして、その兵法には三種の心を具える必要がある。

第一、大信心を具えること。
第二、芳心の心を具えること。
第三、不退転の心を具えること。

この三種の心が武術には必要なのである。
大信心とは疑う所の無いこと。
放心の心とは自由のこと。
不退転の心とは武術兵法そのもののこと。
心にとどめがあれば心流れず、自由に自然のまま動く事は出来ない。
心にとめがあれば体は動かずに破られる。

勝つ事。

立ち会いに於いて、円妙自在、水の如く流れる様に動く事により、敵の動きが心に映る。
敵が打とうと動いたその一瞬「勝つ」と感じ打つ。

「勝ったあとに打つ」と上泉伊勢守信綱は言う。
「守りを主とし攻めを従として勝つ」ことが、日本の武術精神ではないだろうか。

いわいる空手の武術性とは、『事に臨んで敵を一撃にて倒す、また敵を抑制し、敵の闘争本能を失わせる事にて勝つ』。
これぞ武術空手であると認識する。
他の空手との大きな相異であり。
まずは絶対なる勝利の技法こそが完成してから、次の精神向上に進むのであって、 まず戦いにての勝利が初伝であり、畳水練では絶対にこれらの事項を認識出来る訳が無い事をここに警告を促す事。
これが、武術とスポーツの大きな相違である。
正しい指導者の教えを請う事で、空手道が失伝せずに日本伝統武道に認められる事を切に願い、我が協会が必ずや空手道の完成を全うする事を誓い、 永遠に空手道が伝承されてゆく事が責務であることを宣言す。
全ての空手界を敵にしても、正しき空手道を時代の流れを創り出し、 我々協会に対し誹謗中傷があれども、 理念と理想の確立の為に我々が同当為の道の完成をせしめ、 世界中に日本武道の空手道を広める事を誓う。
我が国の民族が作り上げたる武道精神を空手道を通じ、君子の拳として確立をする事。
ここに今一度、人間空手を標榜し、当協会の必要性を世に問い、 認識を得、国際社会に貢献する事で、 真の和平を願い、我が国の崇高なる民族性を誇れるよう、 子孫の恒久的なる民族の誇りを創り上げる足掛かりとして認知を得る事、これこそが当協会の目的である。

社団法人國際武術空手協会 最高師範 渡邊正樹 謹書

当協会の空手道の理念

空手道の理念とは、理性と肉体鍛錬によって到達する崇高なる哲学である。

その心は、日本伝統武術より共通項を取り出し総合して得たる武術である。

日本武術は、他の国には無い哲学を帰一する為、日々の修業を通じ、心技体を養うことにより、 物事の本質すなわち真髄を見極める眼識を得、人格権(生命・身体自由等の関する権利)を守りぬく事により生涯武術として確立と完成を目指すものである。

今日では、空手界においてスポーツ空手(競技空手)が主流となっているが、 空手とは元来、身を守り敵を制するものであり、 日本民族武術の中でも特に『無手』、即ち身体動作のみで敵を制することの 出来うる崇高なる武術なのであり、 其の精神と技法が現在失伝しかかっている今、 我々国際武術空手協会が今一度、 本来の空手の持つ武術性と不戦而勝の精神を取り戻し、 徒手空拳すなわち無手『身に寸鉄を帯びず』にて敵を制する技法など 特異的なる身体を武器化する錬磨などを積み上げる事により、 敵の闘争本能を抑えることを習得し、 目先の勝負だけの修練ではなく自己を鍛え上げる事により、 技と術の修得にて最強である事が必至でありながらも、 人格の完成を養い、人間空手を標榜出来うる武人を 我が社団法人國際武術空手協会より人道的人物を輩出する事で、 我が日本より国際的に認識させることを掲げる。

社団法人國際武術空手協会 最高師範 渡邊正樹

空手の修行たる者とは

空手の修行たる者とは

漢が死んで逝くまでの心得

今日命尽きても天命を知り受け入れろ

嘆き悲しむのは心が弱いからであり
自分の役目が終りであるのを命というもので割り切る事だ

病や事故で自分を見失うな

人は必ず病や事故で命亡くすものだ
特別なことではないんだ
苦しむ事など時間の無駄である

漢ならその日を迎えたら最後位は廻りの皆様に
気のきいた言葉の一つくらいは残そう

それが真の男の終演だからな

最高師範 渡邊正樹

本協会設立の目的

スポーツとしての空手ではなく、武術としての空手。目先の勝負だけの修練ではなく、人格の完成を養い、心身ともに自己を鍛え上げる空手。本協会より人道的人物を輩出し、日本の武術空手を国際的に認識させること。